「世界遺産ってなんか堅苦しい」
「世界遺産のタイトルも抽象的だし何がすごいのか良く分からない」
「解説を読んでもポイントが良く分からない」
この記事はそんな方に向けて書いています。
様々なサイトで世界遺産については説明されていますが、どのサイトも難しいです。
それは情報量が多すぎて、事前知識がないと理解しづらいからです。
この記事では、国内23の世界遺産を制覇し年間50回以上国内を旅行する筆者が、簡単に理解したいという方のために世界遺産に登録された理由をたった3行で分かりやすくシンプルに解説します。
世界遺産に登録された理由を理解すると、旅先での見方は変わります。
それは世界遺産への登録理由こそが「他の観光地とは一線を画す」理由だからです。
世界遺産の概要を理解して、ぜひ現地に足を運んでみましょう。
原爆ドームは原子爆弾の悲惨さを今に伝える

[登録年]:1996年
[所在地]:広島県広島市
[登録区分]:文化遺産
原爆ドームは、日本の広島市に投下された原子爆弾の悲惨さを今に伝える建造物です。
1996年に「二度と同じような悲劇が起こらないように」と戒めや願いをこめて、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
原爆ドームはその悲惨さから、負の世界遺産の一つともなっています。
ただしユネスコが公式にそのような分類をしているわけではないので、明確な定義が存在せず論者によっても意見が分かれます。
▼世界遺産を学ぶ際にはこちらの記事をご覧ください。非常に分かりやすい本を紹介しています。
>>【大人向け】国内の世界遺産を学ぶなら最初に読みたいおすすめの本3選!
▼実際に原爆ドームに行ってみた感想や見どころはこちらの記事をご覧ください!!
>>一度は訪れたい!原爆ドームの感想や見どころを写真で紹介!
原子爆弾は核分裂を利用した核兵器

原子爆弾は核兵器の一種で、核分裂の連鎖反応で起こる膨大なエネルギーを利用します。
物質を構成する最小単位である原子の中にある原子核を他の粒子と衝突させると、原子核が2つに分かれ(核分裂)、エネルギーを放出します。このエネルギーが爆風(衝撃波・爆音)や熱線、放射線に変わり破壊しつくすのが原子爆弾(原爆)です。
広島に落とされた原爆はウラニウム型爆弾で、約50kgのウランが使用されており、このうち核分裂を起こしたのは1kg程度と推定されています。
原爆の威力がいかに大きなものであるかを示す理論と公式を示したのは、ユダヤ人科学者のアルベルト・アインシュタインでした。
アインシュタインは原爆の開発に直接関わったわけではありませんが、アメリカのルーズベルト大統領に向けた原爆の開発を求める手紙に署名をしたことが開発のきっかけになったとされています。
第二次世界大戦中にユダヤ人として迫害され続けたアインシュタインは、ナチス・ドイツが原爆を開発することを恐れて開発に賛成したのです。
原爆ドームが世界遺産に登録されている3つの理由

原爆ドームが世界遺産に登録されている3つの理由を紹介します。
理由①人類史上はじめて使用された原爆の威力や恐ろしさを現代に伝える代表的な建物だから

広島に落とされた原爆は、人類史上初めて実戦で使用された核兵器でした。爆発とともに強烈な熱線と放射線を放出し、建物だけでなく、人や動物、生態系のすべてを根こそぎ破壊したのです。
原爆は破壊だけにとどまらず、かろうじて生き延びた人々にも放射線による残虐な後遺症をあたえました。
原爆ドームはそのような辛く悲しい歴史を現代に伝えています。
理由②核兵器による惨状を当時の姿で今に残す世界で唯一の建物だから

広島市街あの建物の多くは原爆により破壊されたため、原爆ドームを除き当時の惨状を語る建物がありません。当時の姿のまま核兵器の威力を伝える原爆ドームは大変貴重な遺産です。
原爆ドームは最初から保存が決まっていたわけではなく、解体される可能性もありました。「戦争の恐ろしさを後世に伝えたい」という意見だけではなく、「忌々しい記憶を忘れたい」という意見が根強くあったからです。
大きく保存に動き出したのは1960年です。1歳で被曝し、15年後の1960年に白血病で亡くなった楮山ヒロ子さんの手記をきっかけに市民団体が保存にむけて動き出し、現在に至ります。
「広島(市)民の胸に今もまざまざと記憶されているおそるべき原爆」「あの、いたいたしい産業商れい管(産業奨励館)だけがいつまでもおそる(べき)げん爆を世にうったえてくれるだろうか」
引用元:楮山ヒロ子さんの手記(朝日新聞)
1962年以降は建物の老朽化により内部への立ち入りが禁止されたため、1966年に広島市は原爆ドーム保存の為の募金を始めます。日本全国から6,619万円以上の募金が集まり、保全管理されながら現在も当時の姿を残しています。募金活動は今も続いています。
理由③核兵器をなくし平和の大切さを訴える世界的なシンボルであるから

原爆投下から76年が経過し、被爆した人の高齢化が進んでします。これからの若い世代は原爆ドームを通して戦争の悲惨さや原爆の恐ろしさを学ばなければなりません。
原爆ドームは世界から核兵器をなくし、同じ過ちを二度と繰り返さないための平和のシンボルなのです。
原爆ドームは、広島県の物産品を展示・販売するヨーロッパ建築の建物であった
原爆ドームが被曝する前は、広島県の物産品を展示・販売する「広島県産業奨励館」という建物でした。
設計はチェコ人建築家のヤン・レツルで、全体は窓の多い3階建て(中央部分は5階建てでドーム型の屋根)です。敷地内は600坪の大きな庭園があり、和風庭園だけでなく噴水付きの洋風庭園もありました。
当時の広島市内は木造2階建ての建物が多かったので、ヨーロッパ建築は珍しく市民の目を引く建物であったそうです。
戦後は焼け残ったドーム状の鉄骨の形から、市民の間で自然と「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。
建物の老朽化も激しく一時は取り壊しの話も出ましたが、1966年に広島市は平和の大切さを願う建物として永久保存を決定しました。
原爆ドームはなぜ倒壊しなかったのか
爆心地は原爆ドームから南東に約160m離れた高度約600mの上空で、非常に近距離でした。爆心地では原爆ドーム以外の建物は全壊しましたが、なぜ原爆ドームは全壊を免れたのでしょうか。
主に2つの理由が挙げられます。
- 建物のほぼ真上から爆風が吹き下ろしたこと
- 窓の多い建物だったため、爆風が窓から吹き抜けたこと
これらの理由によって側面の厚い壁は壊れずに残ったと考えられています。しかし爆発当時に館内にいた約30人の人々は、皆亡くなりました。
広島に原爆が落とされた理由
1904年の日露戦争以降、広島は軍需に結びついた近代工業が発達しました。
原爆を投下する都市が最終的に広島に決定した理由は、
- 戦争のための物資や兵員が多く集められていた
- アメリカ人の捕虜収容所がない
という2つの理由です。
8月6日の朝、広島の上空は晴れ渡っており、原爆の威力を調べることに好条件であることが決め手になりました。
広島に決定する前は、日本の17都市が候補に挙げられました。

その後は4都市に絞られました。

これらはすべて軍需・工業都市でした。
アメリカは直径3マイル(約4.8キロメートル)以上の都市から原爆投下の候補地を選ぶようにしており、原爆の威力を測るため候補地への空襲も禁止していました。
広島に原爆が投下された8月6日
1945年8月6日午前1時45分、4トンの原爆「リトルボーイ」を搭載したアメリカの爆撃機B29は、日本のはるか南のマリアナ諸島を離陸しました。
7時間後の午前8時15分に広島上空に到達したB29は、リトルボーイを投下します。
目標地点は相生橋でしたが、風でやや南東に流され、投下から43秒後に島病院(現・島外科内科)の上空600mの地点で強烈な閃光を放って炸裂しました。
爆発から0.2秒後、太陽の照射エネルギーの数千倍という熱線をまき散らし、中心の温度は摂氏100万度を超え、爆心地近くの地表面温度は3000~4000度に達します。爆発から0.8秒後には、衝撃波を伴う秒速440mの爆風が街中を襲い、半径2km以内の建物は全壊、広島市内の建物の9割が焼失しました。
正確な犠牲者の数は分かっておりませんが、同年1945年12月までに約14万人が死亡し、1年後は16万4,000人に達したとされています。
また後遺症により亡くなった方を含めると、現在までに約30万人が原爆によって命を失っています。
平和への祈りを込めてつくられた平和記念公園

人類が二度と同じ過ちを繰り返さないよう平和への祈りを込めて、原爆に焼き尽くされた繁華街跡に平和記念公園がつくられました。
世界遺産に登録されてはいませんが、原爆ドームとともに平和を祈る重要な施設です。
平和の鐘

核兵器の廃絶と世界平和を目指して設置されました。
誰でも鐘を鳴らすことが出来ます。
平和の灯

核兵器の廃絶を願って1964年8月1日に点火されました。
世界から核兵器がなくなるまで灯され続けます。
原爆供養塔

名前が分からない、引き取り手がいない犠牲者を供養するために立てられました。
原爆の子の像

原爆で亡くなった子供たちの霊を慰めるために立てられました。
広島平和都市記念碑

記念碑の下には原爆死没者の名簿を納める石室があります。
記念碑の碑文には以下のように書かれています。
安らかに眠って下さい
引用元:総務省HP
過ちは
繰返しませぬから
平和記念資料館

被爆者の遺品や原爆が投下された経緯などがパネルや写真で展示されています。
原爆ドームを訪れる前に読むべき一冊
せっかく原爆ドームを訪れる機会があるのであれば、事前に原爆ドームに関する書籍を読んでいくことをおすすめします。
読み進めるのが辛いですが、事前に本を読んでおくとより平和の大切さを感じることができます。
原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年 (文春文庫)
大宅賞、早稲田ジャーナリズム大賞を受賞したベストセラーです。
広島平和記念公園の片隅に、土饅頭と呼ばれる原爆供養塔がある。かつて、いつも黒い服を着て清掃する「ヒロシマの大母さん」と呼ばれる佐伯敏子の姿があった。なぜ、佐伯は供養塔の守り人となったのか。また、供養塔にまつられている被爆者の遺骨は名前や住所が判明していながら、なぜ無縁仏なのか。
引き取り手なき遺骨の謎を追うノンフィクションです。
魂が揺れる一冊
引用元:Amazon公式HP
毎日、読書をしていると数ヶ月に一度、心が揺さぶられる本に出会うことがある。毎年、夏には戦争について書かれた本を個人的に読むことにしているが、例えば、城山三郎の落日燃ゆのような上からの戦争物と火垂るの墓に代表される下からの戦争物があるが、本書は後者。正直、読み進めるのは辛い。今の中高生が読んだら衝撃を受けると思う。
原爆体験記 (朝日選書 42)
被爆4年後に書かれた手記です。
戦後連合国の占領下にあったため、原爆に関する報道は検閲され、没収・廃棄されていましたが、本書の原本となる高校の文芸誌は奇跡的に残されていました。
人々が感じた生々しい原爆の体験が綴られています。一つひとつが短いので読みやすいです。
被ばくされた人は人間である
引用元:Amazon公式HP
様々な立場の被爆者の方の生の被ばく体験が語られている。思想信条を含まない素朴な庶民の、素朴な苦しみの体験記は、作為的なものが何もないだけに、一層被爆の悲しみがこちらに伝って来るように思えた。しかし、心無い人々の心には何も響かない作文集でもある。
トランクの中の日本:米従軍カメラマンの非公式記録
広島の原爆を象徴する写真でおそらく一番有名であろう「焼き場に立つ少年」を掲載した写真集です。
悲しく恐ろしい原爆の様子を写真で直接読者に語り掛けます。
どんな文章よりも激しく胸打つ写真ばかりが掲載されているので一読の価値ありです。
子や孫に見せ継がせたい、素晴らしい本です
引用元:Amazon公式HP
「火傷を負った少年」で涙が止まらなくなり、「焼き場に立つ少年」で耐えられなくなり、いったん本を閉じて深呼吸しました。戦争の悲惨さが身に沁みて伝わりました。
まとめ
「原爆ドーム」の紹介はいかがだったでしょうか。
簡単でもいいので世界遺産については絶対に登録理由を知ったほうがいいです。それは世界遺産が「他の観光地とは一線を画す」からです。
この記事が、ちょっとでも目線が変わるお役に立てれば嬉しいです。
▼日本の世界遺産はこちらの記事をご覧ください。
>>都道府県別|旅行におすすめ!国内の世界遺産まとめ一覧!
以上、<なぜ「原爆ドーム」は世界遺産?その理由を3行で分かりやすく解説!>という話題でした。

